宿屋の娘が覚えている、誰にも話さなかった夜

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あの夜のことを、私は今でも覚えている。
覚えている、というより――胸の奥に沈めたまま、忘れられずにいる。

宿屋はいつもと同じだった。
旅人の靴音、階段のきしみ、暖炉の薪がはぜる音。
父は帳場で勘定をつけ、母は奥で洗い物をしていた。
私はいつものように、笑顔で鍵を渡し、皿を運び、布団を整えた。

ただ一つだけ、違っていたことがある。
その夜、彼が来た。

鎧はくたびれ、剣には刃こぼれがあった。
英雄と呼ばれるには、あまりにも静かな男だった。
酒も頼まず、料理にも手を付けず、
ただ窓際の席で、夜の町を見ていた。

「お部屋は一つで?」

私がそう聞くと、彼は一瞬だけこちらを見て、うなずいた。
その目は、疲れていた。
けれど、恐怖でも絶望でもない。
“終わった人”の目だった。

部屋へ案内する途中、私は気づいた。
彼は、階段を上がるたびに、
まるで足音を数えるように、慎重に歩いていた。

「……長い旅だったんですね」

何気なく言ったその言葉に、彼は立ち止まった。
振り返らずに、低い声で言った。

「旅は、終わったよ」

それだけだった。

夜更け、客たちが寝静まったころ。
私は一人、帳場の灯りを落としていた。
そのとき、二階から物音がした。
慌てた様子ではない。
泣き声でもない。
ただ、椅子が軋む音。

なぜか私は、行かなければならない気がした。
理由は分からない。
でも、行かないと後悔すると思った。

扉をノックすると、彼はすぐに開けた。
部屋の中には、剣が壁に立てかけられていた。
そして、机の上には――血のついた手袋。

「……すみません」

彼はそう言って、手袋をしまおうとした。
私は、首を振った。

「大丈夫です。
ただ……眠れないのかな、と思って」

彼は、少しだけ笑った。
それは、誰にも見せない笑いだった。

「眠れないんじゃない。
もう、夢を見なくていいから」

私は、その意味を聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。

代わりに、温かいスープを差し出した。
母が、疲れた旅人のために作る、
ありふれたスープ。

彼は一口飲んで、目を閉じた。

「……ありがとう」

その声は、祈りのようだった。

しばらく、何も話さなかった。
ただ、同じ部屋で、同じ夜を過ごした。
言葉がなくても、十分だった。

やがて彼は言った。

「世界は、救われたらしい」

“らしい”という言い方が、妙に胸に残った。

「でもね、
誰も、どう救われたかは聞かない。
誰が、何を失ったかも」

私は、何も言えなかった。
慰めも、励ましも、似合わなかった。

夜明け前、彼は宿を出た。
支払いはきっちり置いてあった。
名前は、最後まで聞かなかった。

翌朝、町はいつも通りだった。
子どもは走り、商人は声を張り上げ、
誰も、世界が救われたことを祝っていた。

でも私は知っている。
救われた世界の片隅で、
一人の旅人が、夢を置いていったことを。

あの夜のことを、私は誰にも話さない。
話せば、物語になってしまうから。
英雄譚の、都合のいい一場面に。

だから私は、今日も宿屋で鍵を渡す。
笑顔で、変わらぬ毎日を送る。

ただ、夜になると――
あの窓際の席を、少しだけ長く拭く。

誰にも話さなかった夜が、
今もそこに、静かに残っている気がするから。

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