――ドラゴンクエストIII そして伝説へ…短編
朝は、いつもと同じ音で始まる。
城の門が開く重たい軋みと、遠くで鳴く鳥の声。
アリアハンの朝は、驚くほど穏やかだ。
勇者はその音を、窓越しに聞いていた。
剣も鎧も、もう身につけていない。
壁に立てかけられたままのそれらは、
出番を失った道具のように静かだ。
旅立ちの日は、確かに存在した。
王の言葉も、母の背中も、城下町のざわめきも、
すべて記憶に残っている。
だが、勇者は城門をくぐらなかった。
理由を聞かれれば、
「怖かったから」
と答えるしかない。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
朝食は、母が焼いた固いパンと薄いスープ。
勇者はそれを黙って食べる。
母は何も言わない。
旅立たなかったことについて、
責める言葉も、慰める言葉もなかった。
沈黙は、責任を問うよりも重たい。
昼前、勇者は城下町へ出る。
市場では、いつもの顔ぶれが並んでいる。
鍛冶屋の男は、今日も鉄を打っている。
武器屋には、新しい剣が並んでいる。
それらは、本来なら自分が使うはずだったものだ。
だが誰も、
「なぜ旅に出ないのか」
とは聞かない。
勇者という肩書きは、
口にしなければ存在しないのと同じだった。
酒場の前を通ると、
中から笑い声が聞こえてくる。
ルイーダの酒場だ。
仲間を募るための場所。
本来なら、勇者が立つはずだった場所。
扉の前で、一瞬だけ足が止まる。
だが中には入らない。
仲間を集めなかった勇者に、
物語は始まらない。
それを、勇者自身が一番よく知っていた。
午後、城の裏手にある丘へ登る。
ここからは、アリアハンの城と町がよく見える。
世界は、思っていたより広くなかった。
同時に、思っていたよりも重かった。
「世界を救う」
という言葉は、
この丘の上では、やけに空虚に響く。
魔王ゾーマの名は知っている。
闇に覆われた世界の噂も聞いている。
それでも、
勇者はここにいる。
夕方、子どもたちが剣の真似をして遊んでいる。
その中の一人が、勇者に気づいて言う。
「ねえ、勇者さま、いつ旅に出るの?」
勇者は少し考えてから、答える。
「まだだよ」
それは嘘でも、本当でもなかった。
夜。
家に戻ると、母はランプを灯していた。
一日の終わりは、静かだ。
勇者は剣に触れる。
まだ、重い。
だが、朝よりは少しだけ軽く感じる。
旅に出なかった一日は、
何も変えなかったようでいて、
確実に何かを積み重ねていた。
恐怖も、迷いも、後悔も。
すべてが、ここにある。
勇者は知っている。
いつか城門をくぐる日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
だが、今日という一日は確かに存在した。
アリアハンを出なかった勇者にも、
物語にならない一日が、
確かに流れていた。
そしてその一日もまた、
世界のどこかに連なっている。


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