宿屋の娘は、毎朝同じ順番で仕事を始める。
炉に火を入れ、パンを温め、昨夜の食器を拭く。
町の朝は静かで、勇者が泊まった翌日でさえ、特別な変化はなかった。
勇者は、よくある若者の顔をしていた。
伝説の剣を携え、仲間を連れ、地図を広げては次の目的地を確認する。
宿屋の娘は、何度もそういう旅人を見てきた。
「次の町へ行く道は、どちらが安全ですか?」
朝食の後、勇者はそう尋ねた。
彼の目は真っ直ぐで、疑うことを知らない色をしていた。
娘は一瞬、言葉に詰まった。
安全な道は、確かに存在する。
川沿いを進み、関所を越え、日暮れ前には次の町に着ける。
誰もが知っている、無難な道だ。
だが、娘は嘘をついた。
「森を抜ける近道があります。
少し危険ですが、早く着けます」
勇者は少し考え、うなずいた。
「ありがとう。急いでいるんだ」
それだけ言って、彼は仲間と共に宿を出た。
娘は見送らなかった。
背中を見れば、きっと後悔すると思ったからだ。
娘が嘘をついた理由は、ひとつではない。
まず、彼女は知っていた。
安全な道の先で、何が待っているかを。
数日前、旅人が噂していた。
次の町は、すでに魔物に包囲されているという。
逃げ場はなく、助けを求める声も届かない。
勇者がそこへ行けば、確実に戦いになる。
彼は、まだその覚悟をしていない顔だった。
もうひとつの理由は、もっと個人的なものだった。
娘には兄がいた。
数年前、勇者を名乗る若者と共に旅に出た。
世界を救うためだと、胸を張って。
兄は戻らなかった。
最後に届いた手紙には、こう書かれていた。
「戦いは、思っていたよりずっと重い」
それだけだった。
娘は、それ以来、勇者という存在を信じきれなくなった。
彼らは世界を救うかもしれない。
だが、その途中で、誰かの日常を壊していく。
だから、彼女は思ったのだ。
せめて、ひとつくらい、
勇者が“選ばない道”があってもいいのではないか、と。
森の近道は危険だ。
魔物も多いし、夜になれば迷う可能性もある。
だが、必ずしも死ぬ道ではない。
引き返すことも、立ち止まることもできる。
安全な道は、引き返せない。
娘は、勇者に試したのだ。
彼が、本当に急いでいるのか。
それとも、誰かに言われた使命に追われているだけなのか。
夕方、娘は森の方角を見た。
雲が流れ、日が傾いていく。
勇者は、その夜、戻ってこなかった。
翌朝、町に噂が広がった。
森で戦いがあったらしい、と。
娘は何も言わなかった。
自分が嘘をついたことも、理由も。
数日後、勇者は一人で宿に戻ってきた。
仲間の姿はなかった。
彼は何も尋ねなかった。
娘も、何も説明しなかった。
ただ、会計の時、勇者は小さく言った。
「あの道を教えてくれて、ありがとう」
娘は答えなかった。
答えられる言葉を、持っていなかったからだ。
彼は旅立った。
今度は、安全な道を選ぶだろうか。
それとも、もう旅をやめるだろうか。
娘には分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
あの日、嘘をつかなければ、
彼は確実に戦場へ向かっていた。
嘘は、世界を救わなかった。
だが、ひとりの勇者に、
立ち止まる時間だけは与えた。
宿屋の娘は、今日も朝の仕事を続ける。
世界は変わらない。
それでも、彼女は思う。
すべての勇者が、
正しい道を進む必要はないのかもしれない。


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